由緒・歴史
寺伝によると、善導寺は平重衡によって焼失した東大寺の復興をめざし,大勧進職を勤めた俊乗坊重源上人(1121~1206年)を開基とする。上人は畿内・西国の7か所に別所を造営し、そこを念仏信仰の基盤としたのである。その中で摂津には渡辺津に別所が設けられた(渡辺道場)。そこには一間四面の浄土堂があり、皆金色丈六の阿弥陀仏像・観音勢至像がまつられていたという。又来迎阿弥陀如来像を安置する来迎堂や「菩薩装束28具」、「天童装束30具」を備え、迎講(二十五菩薩供養会)も修されていた様で(『南無阿弥陀仏作善集』)、この地は阿弥陀仏を信仰する人々でかなりの賑わいがあったのではないかと想像される。渡辺道場には他にも小堂があり、重源上人が入宋で招来したという善導大師の真影が祀られていたと伝える。そのお堂を「放光殿」と称し、これが善導寺のはじまりとされているのである。渡辺津は現在大川にかかる天満橋から天神橋の間にあったとされるのだが、この渡辺道場の所在はいまだ不明である。
時は下り、豊臣秀吉が大坂城下町を整備していく過程で天満の寺町も東西一列に形成され、善導寺はその一角、現在の与力町(1978年までは東寺町という)に堂宇を構えた。文禄元年(1592)傳誉慶公上人が開山となっている。当山第4世實誉文貞上人の時、第108代後水尾天皇の第12皇子・尊光法親王が門跡第二世として知恩院に入られたが、その戒師を勤めた知恩院第35世・勝誉旧応上人と、善導寺の實誉文貞上人とが関東檀林で同行学友であった。そんな縁もあって、文貞上人は度々知恩院の旧応上人の座下に至り、幸いにも尊光法親王の得度の折、法式の指南役を仰せつかったという。
文貞上人はしばらく宮門に通い親王より親しく寵を受けたが、親王は延宝8年(1680)36歳の若さで薨御される。その遺言には「私の滅後、長く位牌を祀るように」と命じておられた。以後善導寺は、宮中より永代好身寺院として許状を受け、一般寺院では珍しく幕や本堂瓦、提灯台、諸々の仏具等に菊の御紋を付すことを許されている。尚、現在本堂には「無量威王院大蓮社超誉尊光法親王尊儀」の位牌を祀っており、又親王のお墓は知恩院の御廟の隣にある一心院にある。
江戸時代の大坂市中(大坂三郷=南組・北組・天満組のこと)では三度の大火(享保9(1724)年の「妙知(智)焼け」、天保8(1837)年の「大塩焼け」、そして文久3(1863)年の「新町焼け」)があったとされるが、特に大塩平八郎の乱による「大塩焼け」によって善導寺も被害を被ったようである。この時に上記の謂れを記す善導寺の日記が焼失したとある。又、昭和20年6月1日の太平洋戦争の大阪空襲により、本堂、庫裏が全焼。本尊の2尺8寸の阿弥陀如来坐像は灰燼に帰してしまった。この時御前立の一光三尊仏は第24世良栄上人が事前に福井に疎開させており、かろうじて焼失を免れることができた。現在の本堂は昭和52年に復興を遂げ、鉄筋コンクリート製の造りとなっている。
現住職は第26世。